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葬式の、それも野辺送りについての記憶です。 30年ほど前のことで、早春のよく晴れた日でした。豪雪の村にしては珍しく雪の少ない年で、といっても、膝まで埋まるほどの雪がまだ残っていました。
ぼくたち子供の一群は葬式という非日常的な出来事に興奮して、葬列から離れたところで友達とふざけたり、あるいは神妙な風を装い葬列へと近づいたりしていました。
棺は縦棺とよばれる箱型で、そのつど火葬場で遺体と一緒に燃やされましたが、蓋のほ うは使い回されました。この棺蓋(がんぶた)は村の薬師堂に置かれていました。神社の屋根を連想させるその蓋には、戒名に応じて飾り付けが施されます。金紙の鳳凰の「せんぼ」、銀紙の鳳凰の「たんぶつ」、切り紙の火炎の「ひら」の三種類です。棺がかつがれてゆく様子は、今から思うと神輿のようでした。
仏には三途の川の渡し賃が与えられましたが、紙銭ではなく本物の貨幣だったそうです。さらに塩の木とよばれる白膠木(ぬるで)の杖が与えられました。
葬列は死者の家から、引導場(いんどば)とよばれる共同墓地の中心へと重々しく行進し、 途中で村人が香典を渡したりしますし、子供たちが葬列を追いかけたりしていました。
死者に引導を渡す僧侶を見ていると、仲間のだれかが、焼場を知ってるぞ声を上げ、即座にみんなで見にいくことに決まりました。
今では考えられないことですが、その頃は村はずれの共同の火葬場で村人たちが、遺体を焼いていたのです。火葬にするための薪は各自が揃えなければなりません。冬場になる と、藁束はさほどではなかったそうですが、必要な柴木を確保するのは難しく、高齢者や重病人の家は万が一に備え、蓄えておかなかければならなかったそうです。
ぼくたちはしばらく時間を潰して、ゆっくりと跡を追いました。人の姿はありませんでしたが、気配が残っていました。途中で空を見上げると、残された柿の実が目に入りました。その時の空の青さと柿の実の色を今でも思いだします。
先を行く子供が突然走り出したのにつられて、ぼくも走りだしました。着いた先には藁の山がありました。ちょうど火がつけられたばかりで、火は勢いを上げながら、藁の山を 飲み込み始めていました。子供のくるところじゃねい、という罵声で、ぼくたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ帰りました。
ところで手元には24、5年ほど前の写真があります。この野辺送りも冬ですが、大雪の年のようです。
写真から気づくのは、寝棺になっていたということです。これは霊柩車に載せて町の火葬場へ運ぶためで、五年ほど後には村では火葬が行われなくなっていたわけです。それでも、30年前の雰囲気をよく伝えています。
現在葬儀はずっと簡素化され、一段と様変わりしています。
当時の写真の詳細-----(クリックしてください!)
by BigBrother
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