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なんでもそうですが、分かったつもりでいる物事も調べれば、予想もしない広がりを持っています。それどころか、また幾つもの微妙に異なる系列が錯綜し、絡み、ある時にはくっつき合うという極めて混沌とした領域があったりと、最初のイメージなどくずれてし
まい、途方にくれる始末です。
仏教はゴータマ・シッタルダとか、釈迦といわれる歴史的人物の教えなわけですが、
この仏教は後になればるほど、奇怪な様相を呈します。阿含経など初期のお経は、血肉を備えた歴史的釈迦が現われるのですが、それは次第にグロテスクなまでに理想化され、最
後には釈迦の姿すら見ることは出来ません。
仏教の中でも一段と謎めいて見えるのが密教です。この一冊はそんな密教の分かりにくさを初心者向けに説明してくれます。もちろん、膨大な背景を有する仏教ですし、そこから生まれでてきた密教ですから、文庫程度の分量で論述しきったり、そこからすっきりしたかたちの理解を持ったりすることはなかなかむずかしいでしょうが。
この本で興味深かったところが幾つもあるのですが、三つ挙げます。
まずは、密教における師匠の絶対性ということですね。この箇所を読んで思い当ることがありました。
師匠に対する尊敬は、インドの後期密教においてその頂点に達する。師匠なしに宗教体験はありえず、秘密の教義と修行を守ることは不可能であると堅く信じられていた。いかに多くの経典を読み、教義を理解し、難行苦行を実践しても、真の宗教体験は師匠の導きなしには得られない。〜略〜このような意味で、密教においては師匠の地位は絶対である。インドにおける後期密教では、一切の世俗的な道徳とか宗教的な戒律に対して大胆に挑戦し、その権威をことごとく否定する。しかし唯一の例外として、師匠を侮蔑することだけ
は許されない。
次に、密教では日本の真言密教で他と自らを法身説法という観点で区分するということです。
大日如来は歴史的な存在ではなく、真理そのものを具体化した仏である。言い換えれば、法(ダルマ)そのものの人格化である。それを法身と呼ぶ。
仏教の開祖とされる釈尊は、世の中の最高の真理を自ら悟った人物であるから覚者すなわち仏陀といわれている。〜略〜。
仏教のなかには、真理は抽象的な概念であって法身といっても、真理(法)の集合体(身)にすぎないという考え方も有力であった。ところが密教では現実世界の事象のことごとく絶対の世界にほかならないという大乗仏教の基本的な考え方を継承し、発展させている。〜略〜だから密教では、法身が説法するという考えを強く打ちだしており、日本の
真言密教では、法身説法を顕教と密教を分ける第一の要点とみなすようにもなった。
最後に、始めは比較的良好であった最澄と空海の関係が、次第に確執を生むに至ったのは、二人の密教観の根本相違にあったという指摘です。
密教を法華と同一基盤において取り扱おうとした伝教大師(最澄)は、弘法大師(空海)から密教経典を借覧することによって、密教の本格的な学習を志した。ところが「理趣釈経」の問題が端緒となって、密教経論の借用願いは拒絶された。その理由は密教の伝達方式を弘法大師は面授のみとし、伝経大師は筆受によっても可能と考えたところにある。
この「密教」を読んで感じたことは、かりに人が神秘的な体験を持ったとしても、この体験を通約可能な次元へとする努力を放棄し、それどころか、自らの体験にたいする、一切の合理的な検証や批判を拒絶し、その絶対性の超絶的な優位を主張するのみで、他を貶しめるようなことがあれば、大間違いだということですね。
by BigBrother
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