「続々々々N氏のラーメン道まっしぐら」 2001.2.22

 某所にてN氏のラーメン試食会のことを肴に酒を飲む。
 N氏ももちろん同席。忌憚のない意見が飛ぶ。まず、N氏より試食会の際にアブラがスープの中に混ざって濁ってしまったのは、スープを車で運んだ振動によって溶け込んでしまったのという事がはっきりしたので、これに関して問題はなくなった、今回はスープの繊細さについて教訓を得たという。
 これに対してN氏の親友H氏は、そんなやわなスープじゃなくて、完璧なスープを作れと言った。これは一見暴論のようだが、なるほどと思わせる点がある。アブラがスープに混ざったのは仕方がないとして、それだけで味ががらりと変わっていいはずはない。これを聞いて、かえってラーメンにはスープだけを味わうものでないからだという思いを強くしたからだ。
 当たり前だが、ラーメンは麺も同時に食べる。先の試食会では麺を食べるていると、味が薄すぎると感じたという意見も多かった。これはとりもなおさず、スープに力がないということを示すのではないだろうか?うまいのだけれど、麺を食べると物足りない。最後にはスープも甘ったるく感じられてしまうのだ。そうだとすれば、完璧なスープとはそれだけで完結しているスープではない。麺、場合によっては、他の具があってのスープなのだ。
 N氏は自分の目指していのは清湯(ちんたん)スープだという。清湯スープのとり方は難しく、すぐにはできないから,待ってほしいという。たしかに、そうなのかもしれない。しかし、N氏の清湯という言葉に引っかかった。ラーメンはもとは中国のものかもしれないが、日本にとり入れられて、日本人の嗜好に合うようアレンジされた食べ物だと思う。大事なのは日本人の味覚を考えて作られたのが、現在の日本で好まれているラーメンではないのだろうか。それをわざわざ祖先帰りを示すよう言葉で、清湯スープといったN氏の意図はなんだろう?もちろん、中華の世界ではあたりまえの言葉なのかもしれないが、一般の人にはもう少しわかりよい言葉の説明があってしかるべきだろう。それはN氏のこだわりのようでいて、むしろ、一人よがりを示すものではないだろうか?
 こだわりのラーメン。その聞こえはいい。しかし、えてして店主の一人よがりに陥っているのではないか?ラーメンは中国でも日本でも大衆のものであったし、大衆の味覚に合わせようとしてきたのではないのか?確かに、自分がうまいと思うものをだすのは基本なのかもしれない。しかし、N氏にはまず相手を喜ばそうという、あるいはもてなそうという意識があるだろうか?
 スープが大事だという、N氏の主張はよく分かる。何度でも言う。お客はスープだけできているのではない。スープより麺に重点を置く人もいるだろう。あるいはチャーシューとかメンマとか。N氏自身ラーメンは調和だといっていたではないか?しかし、お客をもてなすということがあっての調和なのではないか?
 N氏は近々ラーメン修行に行くという。N氏によると、味ではどこの店からも学ぶものはない、ただ店の経営を学びにいくのだという。はたしてそうなのだろうか?N氏には相手の嗜好を熟知し、その立場に立った上でもてなすという意識が欠けているのではないか?それこそがなによりも修業とされなければならないのではないか?  ラーメン道を歩むN氏をみんなが応援している。N氏の潜在的な力量はだれもが認めるところである。しかし、今のままではそれを十分に発揮できないだろうとみんなが危惧している。N氏よ!くれぐれも、独断に陥る事勿れ!これはみんなの願いである。
いずれにせよ、N氏のラーメン道は険しい。

つづく

by BigBrother