富所正一さんのことーその3ー 2003.1.17

冨所正一さんのフォークソングが注目されていた頃、彼について書かれた格好の資料が見つかりました。さらにこの資料に注をつけて、当時の状況を考えてみたいと思います。

〈新潟フォークフェスティバル〉(1976年5月22日 夕刊)  

フォークソングはいま混迷の季節なのだという。あれは70年安保の前年だった。高石ともや、岡林信康ら関西勢の巻き起こしたプロテスト・ソングの波は全国に広がった。マイク真木の「バラが咲いた」(1966)が第1次フォークブームとするなら、第2次ブームといっても過言ではない。
 しかし、この波も大学紛争の終わりとともにいつか消え、吉田拓郎、井上陽水の時代となる。ここではあの岡林らの政治批判や風刺は姿を消し、マイホーム指向、二人の世界への没入が顕著となる。陽水はテレビにこそ顔を出さないが、さきごろ発表された所得番付では高額第1位。フォークを愛する若者たちは「こっち側」の人間でないことを敏感に受け止め始めている。
 こうした背景の中で昨年あたりから、秋田の「田吾作」、長野の「わさびーず」、宮城の「吉川団十郎一座」、秋田の「マイペース」(名古屋で活躍中)など一連の〃田舎ソング〃の登場となった。
 この動きに呼応したわけではないが、ここ新潟の地でも物真似でない「自分たちの歌」を歌う若者が育ちつつある。
ある者は既にラジオの電波に乗り着実にファンを獲得している。方言まる出しの歌は聴く者の胸に何ともいえぬ親近感を抱かせる。またある者は3児のパパとなった今も活動をやめない。
「新潟フォークフェスティバル」という名の団体が結成されて3年。公演回数もやがて20回を迎える。出演した団体は既に50余。コピーから出発した彼らも、いまやオリジナル路線への方向を確立した。
これからどう育っていくか。〃混迷の季節〃の一現象にしか過ぎないのか。それとも…。何はあれこの音楽団体の面々を紹介しよう。
 親は「やめろ」というけれど
横山作栄 中心的存在の26歳。3児のパパである。巻高校から立命館大に進み、そこでフォークと出合う。ついでに京都でOLをしていた現在の奥さんも〃獲得〃。実家の洋品店を手伝っている。父親から「もうやめろ」と言われているが「30歳になっても40歳になっても続けたい」。「越後いもバンド」のリーダー。周囲から「父親の歌を」と勧められているが「恥ずかしいんだワ」。作詞となると引っ込み思案がタマに傷。「生活の歌を」と主張する割に実作の中身は矛盾している。
 東京の集会にバイク駆って
富所正一 「おめぇまだ春らかや」でファンも多い。見附弁まる出しの二十五歳の好漢。昭和48年の夏、五日町のスキーロッジでの交歓会で、横山が「すごいやつがいるなぁ」と驚いた。
「どじょう取りに行こうや」では
  長次ろんの正夫が網持って
  与之介の良男がガチャ持って
  どじょう取りに行こねっかや
と田園風景をおおらかに歌い、近作の「通信簿」ではとりようによっては、痛烈な受験競争社会への風刺とも感じられる。
   あのの これがの
   1らいの これがの
   おれのの 算数の
   もろた もろた
   1らいの
   これがの 人のの
   頭の良さを知る
   紙らいの
 詞の中には母親は登場しないが、野良着姿の母親が目に浮かぶ。偏差値に目をつり上げ、一喜一憂する教育ママの姿ではない。余談だが、語尾の「の」は目上の人に対し呼びかける場合の中越地方の方言。「あのね」と「ね」が語尾に付くと同等の者に対する言葉になる。
 長岡農高時代、プロテスト・フォークに感銘。東京での集会にバイクで駆けつけた。歌そのものはうまくないが、土のにおいのする郷土料理の味。なお「通信簿」は今日22日、NHKのQKFMリクエスト・アワー(午後3時10分16時)で放送予定。ー以下略ー




事項

70年安保:1951年サンフランシスコ平和条約の締結で国際社会に復帰した日本は、同日アメリカと日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安全保障条約、いわゆる安保)」を調印した。安保条約は1960年に軍事面の強化をめざして改定されるが、この条約の批准が時の岸内閣によって強行採決されることにより、岸内閣への反対運動・民主主義擁護運動へ国民的規模の広がりを見せた。条約の自然成立後は運動は下火になっていったが、1970年の安保条約自動延に対する全国規模の反対運動が再び起こった。これが70年安保である。

プロテスト・ソング:1960年代末から1970年代始めにかけ登場した、社会批判、政治批判を込めたメッセージ性の強い歌。アメリカの反戦歌や社会批判の歌の影響を受けた。当時のベトナム反戦、安保反対の状況や高度経済成長のひずみ、学歴社会のゆがみなどが背景があった。
フォークブーム:1969年2月末から毎週土曜日の夜に新宿西口広場のフォークゲリラは、 同年8月に1万人を超えるまでになり、取締りの対象にもなった。 また、1969、70、71年と岐阜県中津川の椛の湖畔で3回行われた津川フォークジャンボリーはフォーク界の実力者が終結し、フォークの人気を不動のものにした。 ◎フォークジャンボリーの出演者たち
'69年8月9―10日
 高石ともや、岡林信康、上条恒彦、遠藤賢司、高田渡、五つの赤い風船、岩井宏、中川五郎、田楽座。
'70年8月8―9日
 岡林信康、遠藤賢司、杉田二郎、小室等と六文銭、五つの赤い風船、高田渡、はしだのりひこ、斉藤哲夫、田楽座、浅川マキ。
'71年8月7―9日
 岡林信康、遠藤賢司、上条恒彦、斉藤哲夫、北山修、かまやつひろし、吉田拓郎、山本コータロー、小室等と六文銭、南こうせつとかぐや姫、ミッキーカーチス、浅川マキ、カルメンマキ、日野皓正
大学紛争:
学生運動は当初は時々の文教政策への反対や授業料値上げ反対運動が中心だった。朝鮮戦争の頃から、しだいに反戦・平和,民主主義擁護の運動へ中心が移った。この1950年代は「政治の季節」といわれることもあった。この学生運動は1960年のの日米安全保障条約改定の反対で大きな高まりを見せた後、次第に停滞、収束していった。1960年代の半ばになると、学生運動が再燃する。ベトナム反戦や大学の民主化を求める運動は、次第に激化し全国的な大学紛争へと展開した。


人名

高石友也(1941ー)北海道出身。「想い出の赤いヤッケ」「学校で何を習ったの」「受験生ブルース」「ケメ子の唄」
岡林信康(1946ー) 滋賀出身 。「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」
マイク真木(1944−)東京出身。「バラが咲いた」俳優真木蔵人は息子
田吾作(1950−)秋田県出身。1973年フォークグループ「田吾作」。「田吾作音頭」
わさびーず:長野出身の堀六平(1946−)により結成。「信濃の人とお茶のおはなし」「木曽の花嫁さん」1970年「わさびーず」を解散。1991年「わさびーず21」再結成
「吉川団十郎一座」:宮城県出身の吉川昇(1948ー)により結成。「田舎者」「キューピーちゃん」「ああ、宮城県」
マイペース:秋田出身の森田貢(1949−)が高校時代に結成。「東京」(1974年)がフォークソングで初めてミリオンヒットを記録
よしだたくろう(1946ー)広島出身。「青春の歌」「人間なんて」「結婚しようよ」
井上陽水(1948ー)福岡出身。傘がない」「断絶」「心もよう」

by BigBrother