「チェット・ベイカー頌」 1997.10.11

 チェット・ベイカは1929年に生まれ1988年に58年の生涯を閉じました。
 彼は「チェット・ベイカー・シングズ」「チェット・ベイカー・シングズ・アンド・プレイズ」の2枚のレコードでジャズファンのみならず、多くの人々に忘れがたい存在となっています。それは彼のジャズボーカルの魅力によるところ大なのです。彼の声の質は、このところの日本の歌謡会ではさほどめずらしいことではないですが、女性かと思ってしまうほど中性的です。しかもジャズボーカルのスタイルはねっとりとまつわりつく雰囲気を秘めています。あるジャズ批評家は、悪意をこめず、まったく客観的に「なめくじが這い回るようだ」と指摘しました。蓋し名言です。
 ボーカルスタイルが特筆されるチェット・ベイカーですが、もともとトランペッターとしてうりだしました。初々しい詩情に溢れたものです。「チェット・ベイカー・シングズ」の「THERE WILL NEVER BE ANOTHER YOU」のイントロは彼のトランペットの独奏ですが、聞くたびにその若々しい音色にこちらの心もリフレッシュされます。
ジャズトランペッターへの人気投票で、あのマイルス・ディビスを抑えて1位を勝ち得たこともありました。
 この2枚のレコード・ジャケットは彼自身の肖像で飾られています。その端正過ぎる容姿からは、チェット・ベイカーの破天荒な人生は想像すらできません。1959年にアメリカを去り、ヨーロッパへと向かいます。この第1の理由は本国で振るわなくなった演奏活動による経済的な逼迫を打開するためですが、もう一つにチェット・ベイカーの麻薬中毒と言う理由があります。彼の中毒は1957年頃から深刻な症状を呈していたといわれます。すっかりジャンキーとなってしまっていた彼は、薬物への対応においてヨーロッパはずっと甘いという印象があったということです。それが彼にヨーロッパ行きを決意させる一因となったともいわれています。
 しかし、彼の予想に反して、麻薬がもとでイタリアで一年半の入獄を余儀なくさせられてしまいます。麻薬への耽溺はその後も治らず、1968年には麻薬をめぐるトラブルから、歯を折られてしまいます。この後しばらくジャズ界から疎遠になりますが、1973年に復帰し、活動を再開しました。その演奏はかっての精彩を欠いたものとなり、彼の相貌は驚くほど一変しました。ある人は「そして彼の美貌は、歳とともに老醜へ近づいていった。〜略〜それは正常に歳を取った男の顔ではない」(武者小路実昭「チェット・ベイカー・シングズ」のライナーノーツより)と言い、またある人は「レコードのジャケットを飾るベイカーの写真は、かつての白面の貴公子ならぬ無残なまでの老醜を見せつけ、それだけでも聴く気力が失せてしまう」(大和明「ベスト・ジャズ・ベスト・アルバム」)と言います。
 このチェット・ベイカーに再度華々しいスポットライトが照されました。1988年の4月、西ドイツで開催されたコンサートの成功です。この演奏は実況録音されて発売されました。NHKのFM放送でこのレコードが紹介されるのを聴きました。私がチェット・ベイカーという名前を聞いたのはその時初めてでした。正直言ってその時の印象はまったく残っていません。ただチェット・ベイカーの名前は覚えているのですから、何かしらの強いインパクトはあったのでしょう。彼のことはその後聞く機会がなく、その翌年の5月13日にアムステルダムのホテルからの転落死もジャズを本格的に聞くようになり初めて知りました。彼の死は事故であるとも自殺であるとも断定しがたいものだったそうです。合掌。
 私は彼の上記2枚のボーカルのものはもちろん、「IT COULD HAPPEN TO YOU」(1958)というボーカルものも好きです。初期の頃の「GERRY MULLIGAN QUARTET」(1952、1953)や「LEE KONITZ PLAYS WITH THE GERRY MULLIGAN QUARTET」(1953)、またハードばップの影響を受けつつあった「PICTURE OF HEATHE」(1956)「CHET BAKER MEETS ART PEPPERTHE」(1956)「TRUMPET ARTISTRY OF CHET BAKER」(1958)といった若い頃のトランペット主体の作品も好きです。とくにこの「TRUMPET ARTISTRY OF CHET BAKER」では「ALL THE THINGS YOU ARE]が中でも気に入っています。「CHET BAKER & CREW」(1956)のようなハードバップの作品も好きです。


 彼の数々のスキャンダルはもはや作品を聴く鑑賞者に影響を及ぼさなくなっています。それによって作品そのものを純粋に経験できるようになったとも言えます。ある意味では先入観なく作品に向い合えるとも言えますが、一方で特異な個性の持ち主の生々しい息づかいが消え去りつつあります。さまざまなスキャンダルは逆に私のような未熟な鑑賞者に作品をより意味深くしてくれました。今では彼が作品として残してくれた数々の名演に聞き入ることで、その良さをひたすら味わってゆきたいと思います。

by BigBrother

 [TopPage] [New] [BB's Room] [Jazz]