トゥーキュディデース「戦史」岩波文庫
1997.11.19
大学の講義に出席した学生がぼんやり耳を傾けていると、突然東京駅という言葉が耳にとびこんできました。「どうして東京駅がギリシアの歴史に関係あるのだろう?」と不思議に思ったという笑い話があります。これはヘロドトスと並び称されるギリシアの歴史家トゥーキュディデースを聞き間違えたからです。もちろん笑い話になるのですから、トゥーキュディデースの名前は世界史で暗記しなければならない重要人物なのですけれど。
この「戦史」はアテネ陣営とスパルタ陣営に分れて全ギリシアを巻き込んだペロポーネーソス戦争を扱っています。この1冊でその名をこれからも記憶され続けるトゥーキュディデースは、本人に関してはまったくと言っていいほど分かっていません。しかし、古代において、資料蒐集をはじめとした、著述そのものの困難さが想像を絶しており、その状況のもとにあって、不朽の古典を表わしえたことを考え合わせれば、傑出した人物であったことは間違いはないでしょう。
「戦史」の執筆理由をトゥーキュディデースは、同書の冒頭において、
「アテーナイ人トゥーキュディデースは、ペロポーネーソス人とアテーナイ人がたがいに争った戦いの様相をつづった。筆者は開戦劈頭いらい、この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予測して、ただちに記述をはじめた。当初、両陣営ともに戦備万端満潮に達して戦闘状態に突入したこと、また残余のギリシア世界もあるいはただちに、あるいは参戦の時機をうかがいながら、敵味方の陣営に分れていくのを見たこと、この二つが筆者の予測をつよめたのである。じじつ、この争いはギリシア世界にはかってなき大動乱と化し、そして広範囲にわたる異民族諸国、極言すればほとんどすべての人間社会をその渦中に陥れることにさえなった」
と述べています。こうして綴られた「戦史」は人類共通の財産となったわけです。もちろん古典たる性格上めったに読まれないという宿命を背負っていますが。
とっつくにくい古典ではありますが、ひとたび引き込まれるとずんずん読めてしまいます。ペロポーネーソス戦争の記述を通して、人間の高貴さあるいは同時に愚かさが的確に活写されているからです。この古典の魅力の秘密を翻訳者は次のように述べています。
「しかしながら、戦史としてまとめ上げられたものは、けっして単なる年代録ではない。また戦史のなかに随所に挿入されている政治家の演説は、現代の実証史家が考える記録作成の概念からはなはだしく異なる歴史記述の方法である。もとよりトゥーキュディデースは事実を忠実に記述するためには、あたう限りの努力を惜しまない。そしてその記事の正確さは近世にいたって碑文学や考古学の資料が整理されてくるにしたがって、ますます明らかにされてきている。〜略〜しかしまた同時に、正確な記録をのこしながら、かれは自分の考えによって、資料の取捨選択をおこなっていることも明らかになってきた。すべての事件を総花式に書かず、かれは自分の構想をささえるに必要と判断したものを書きとどめているのである」
つまり、それはトゥーキュディデースが事件の本質を見抜く透徹した洞察力を有していたからにほかならないわけです。
このすばらしい古典が手軽に読めるようになりました。今回久々に岩波文庫で再刊されたからです。読書の秋の掉尾を飾る一冊として、いかがでしょうか?
by BigBrother
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