ぼくのオンリィ・イエスタディ「80年代思いだすままに」 その9
映画「お葬式」
1998.2.25
大学は1984年に卒業したのですが、そのまま3年間大学でぶらぶらしていました。仕送りをあてにするのはさすがに気が引けたので、アルバイトに専念することになりました。今ならさしずめフリーターということなります。
測量のアルバイト、催物の会場設営あるいは撤去、答案の採点、引越しの補助、ビル掃除、などやりました。測量のアルバイトは主に友人が長期に渡り関わっていたのですが、こちらが不如意の時には仕事を回してもらったアルバイトでした。
アルバイトの中で忘れ難いのは、一夏の巡回映画のアルバイトでした。これは映画のフィルムや機材を車に積み込んで、あらかじめ借りていた会場で映写するものです。会場は町の小さな木造の公民館や集会場のこともあったり、あるいはびっくりするような素晴らしい設備の多目的ホールのこともあったりと、さまざまでした。映画の上映だけでなく、ポテトチップス、チョコレート、キャラメルなどの駄菓子も売りました。ほとんど売れませんでしたが、映画のポスターも置いてました。
上映した映画は、最初の頃がアニメ、題名は忘れてしまいましたがマッチこと近藤真彦さんと中森明菜さんが共演した映画などです。時節がら怪談ものもやりました。この上映にはぼくらの年代だとかなりお馴染の16ミリというちゃちな映写機を使いました。往年の二枚目俳優にして若大将こと加山雄三さんの父上の上原謙さんが主演の年代物でした。モノクロだったように思いますが、あるいは色が飛んでいたのかも知れません。土砂降りの傷だらけのフィルムで料金を取ろうというのには、いささか呆れてしまいました。見に来ていた小学生はただ来ているだけで嬉しいらしく、飛んだり跳ねたりしていました。
映画は2人で組んで巡回しました。私は猫の手も借りたい所へ回されるのですが、組む顔ぶれは3人のうちのいずれかと決まっていました。一人はインドの苦行僧のように痩せていました。手入れの行き届かない山羊髭をたくわえたドス黒い顔は、酒を飲み過ぎて血を吐いたという噂を裏付けるようでした。もう一人は中年太りの一見肩書のあるように見え、貫禄がありました。弁舌は爽やかですが、聞いていると自慢話に終始していました。上映を早目に切り上げるために、平気でフィルムをとばした人物です。最後の人とは一番多く組んで仕事をしました。年上でしたが、さほど離れてはいず、ブルース・スプリングス・ディーンと黒い色が大好きで、黒ずくめで決めていたけっこう男ぶりのいい人でした。いつか自主映画を撮るのが夢で、少しでも映画に関係あることをしたいと、今の仕事に就いたのだそうです。
夏の間繰り返し写した映画が「お葬式」です。1984年11月17日テアトル新宿で上映されて以来、大評判をよんでいました。ぼくがこの映画を一風変った見方をしていたのはその翌年のことになります。
映写機を回すには免許必要だそうです。今でも同じかは知りませんが。ぼくは例の貫禄あるおじさんから「簡単だからぜひとりな」と薦められたことを憶えています。しかしぼくは無免許ながら、16ミリはもちろん、32ミリも扱いました。ぼくがフィルムを掛けている間に、相棒は看板を回収したり、場合によっては次回上映の看板を設置するために出払っていたからです。
「お葬式」は何度も観ただけあって、けっこう細部まで思いだせます。映画の中でモノクロの8ミリの挿入がいかにも「あざとい」印象を与えましたが、いい味がでているとも思いました。海老名みどりさんの屈託のない笑顔が印象的でした。
この映画には一個所かなり際どい濡れ場がでてきます。むろんこの場面は思わせ振りに処理されています。宮本信子さんが丸太で作ったブランコを一人漕ぐシーンと交互に構成されているのです。一度子供連れの母親がこのシーンで会場を飛び出たことがありました。このことと直接関係があるかは分かりませんが、その後ぼくが事務所で機材を積み込んでいる時に、そこの社長が黒ずくめの相方に「うちは*教育映画社なんだから、あの場面はカットしよう」と話していたのを聞きました。この社長の言動から映画を単に商売としか考えていない姿勢が伺えて、ちょっと嫌な気分になりました。いつものように黒ずくめの彼はその話をいいように受け流し、結局は最後まで全部上映しました。そのことで好感を持ちました。今でも懐かしく想いだします。県内をけっこうあちことへと回りました。1985年の夏のことです。
by BigBrother
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