ぼくのオンリィ・イエスタディ「80年代思いだすままに」 その15
芸能人の自殺 1998.4.6

井上ひさし 青葉繁れる  昨年の五月ある女優が、そして冬にはある映画監督がそれぞれ投身自殺を遂げました。マスコミは例のごとく報道合戦を繰り広げました。ご遺族の方々にとってやりきれない思いでしょうし、彼らの死にショックを受けた人々も多数いると思います。
 私はこれらの自殺で、80年代に起きた事件を思いだしました。
 一つは86年の人気アイドルの突然の死です。その頃ぼくは聴講生という吹けば飛ぶような身分で大学でぶらぶらししていました。この事件の時は大学の生協での短期的なアルバイトをしていました。このニュースは同じアルバイトの経済学部の学生から聞きました。
 アイドルの彼女はその絶頂期に投身自殺を行なったこともあり、マスコミの騒ぎぶりも昨年の女優の比ではありませんでした。ワイドショーのコメンテイターの一人が「女性は美しい死顔気にかけるので、飛び降り自殺は男性にくらべてきわめて少なく、彼女は覚悟の死を選んだ」ということを耳にし、こちらは「そんなもんかいな」と感じたことをおぼえています。
 写真週刊誌は彼女がうつぶせに道路の倒れている姿を掲載しました。噂によると、彼女の顔は墜落のために、容貌はまるっきり一変し、それこそ無残なありさまだったといいます。真偽のほどは分かりませんが。
 その後この事件に誘発されたかのように女子高校生の自殺が何件か続きました。マスコミは後追い自殺だとして取り上げて報道したようにぼくは記憶しています。
 もう一つ思いだしたのは、その二三年ほど前の男性俳優の自殺でした。ぼくは定食屋でとんかつを食べながら、このニュースを聞きました。
 彼は「太陽に吠えろ」のレギュラー出演者でした。ぼくにとって彼の印象は「青葉繁れる」というTVドラマでのほうが鮮明です。その際「水もしたたる」という形容はこの俳優のためにあるのではないかと思ったほど、その容姿は端麗でした。
 彼の遺書は公開され、その中の「涅槃で待っている」という言葉は今でもおぼえています。先のアイドルの自殺よりもこちらの死のほうがなぜだかずっと心にひっかかっています。50階近いビルの高さから飛び降りたことに壮絶さを感じたり、死の直前に収録された鬼気迫る演技を目にしたせいかも知れません。
 その後涅槃という言葉を聞くと、この俳優の顔を連想せずにはいられなくなりましたから、ぼくにとってはトラウマというのは大げさですが、記憶のシコリみたいになっています。

by BigBrother

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