「続々々々・失われた時を求めて〜(長岡版)」 1998.9.18

 長岡の日赤町の名前は日本赤十字病院に由来しているのでしょうが、病院は昨年8月に信濃川対岸の千秋ガ原へ移転しています。


----- 1998.5.16 撮影 -----

 現在閉鎖されているこの建物は、私の古本屋めぐりのコースにあるため、しょっちゅう目にするので、かえってさびれ具合に気づきません。しかし、通るたびにこの病院で息を引き取った知人のことを思い出します。彼が亡くなってから既に14年が過ぎようとしています。その頃日赤は改装したばかりでした。院内へ靴のまま入ることができるようになってのには感心したものでした。入院の彼を見舞に行きましたが、訪れる毎に目立って衰えて行く彼を見ているのがつらかったですね。

 最近、吉田松陰が処刑される前の心情を綴った次の一文を目にしました。

      今日死を覚悟して少しも騒がない心は、春夏秋冬の循環において得る所があったのだ。〜略〜。僕は年を数えて三十歳になる。一事をもなすことなくして死ぬのは、あたかも農事で稲のまだ成長もせず、実もつかず、という状態に似ているのだから、残念だと思わないではない。しかし、〜略〜必ずしもこの身を悲しむことはいらないだろう。何故なれば、人間の寿命は定めなきものである。農業における収穫の必ず四季を経過しなければならないのとは違っている。十歳で死ぬる者には、おのずから十歳の中の四季がそなわっており二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳のおのずからなる四季があるのだ。五十、百になれば、五十、百の四季があり、十歳では短かすぎるというのは、数日しか生きない夏蝉の運命をして、百年も千年も経過した椿の木の寿命にひきのばそうというものである。また百歳を以て長いというのは、その長寿の椿を、短命の夏蝉にしようとすることなのだ。どちらも、天命に達しないというべきであろう。
      =奈良本辰也 真田幸隆 訳編「吉田松陰」角川文庫=

 彼が最後の時を安らかに送れたことを願わずにはいられません。それは若かくして死んだ彼に対するある種のうしろめたさから逃れたいという私の気持ちもあります。もとより、上の松陰の言葉は残される者たちの悲しみを和らげる意図が多分にあるのでしょうが、人の一生の在り方について考えさせられます。やりたいほうだいに激しい生き方をすれば、死に臨んでも悔いはないだろうと、一般には考えられていますが、そうでない生き方が望ましいのかもしれないのではと。
 いずれにせよ、本年度中に解体が予定されている旧日赤は、遠からぬ先に失われた時の中へと流れ去ってゆく事物の一つであることは間違いありません。


 「歴史的建造物残そう」旧長岡赤十字病院
長岡市日赤町に残る旧長岡赤十字病院の一部を、歴史的建造物として保存しようという市民有志が「考える会」(世話人代表、阿部祥一・中島校区町内連合会長)を発足させ、このほど地元住民ら約百人で病院内部の見学会を行なった。旧病院は1934年建築。45年の戦災で玄関附近の土台や柱を残して焼失したが、戦後は増改築を重ねながら昨年八月まで使用されてきた。同会が保存を呼び掛けているのは、土台等が残った玄関附近。
 同市寺島町の新病院の建設費用の一部は旧病院の跡地を売却して充てることになっており、今年度中に解体して更地にする計画であることから、「そうなる前に」と保存運動を起こした。

=1998年5月7日讀賣新聞=


----- 1998.5.16 撮影 -----

by BigBrother


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