先週大雪を降らせた寒波も日曜にはおさまり、午後からは日差しも照りだしました。風で屋根の縁から張り出した雪庇(せっぴ)が、気温が緩んだせいで、時折落下していました。
運動がてら、市内まで歩いて本屋めぐり。アーケードから落ちた雪が通路のわきに積っていました。
長岡市などの情報を発信していたサイトのBlog版。最近は更新が滞っています。HTMLより引越し中!!
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先週大雪を降らせた寒波も日曜にはおさまり、午後からは日差しも照りだしました。風で屋根の縁から張り出した雪庇(せっぴ)が、気温が緩んだせいで、時折落下していました。
運動がてら、市内まで歩いて本屋めぐり。アーケードから落ちた雪が通路のわきに積っていました。
2010年明けましておめでとうございます。
21世紀になった時には、「とうとう新世紀か!」と思っていましたが、すでに2010年になってしまったんですからね。
一年一年があっという間でたいして変わり映えしてないようですけれど、本当は相当変わっているのでしょうね。幕末は今から150年ほど前ですし、敗戦は60年ほど前ですけれど今の世の中とてつもなく変わっていますね。後50年ほどしたら、目に見える形で世の中の政治社会体制が変わっているように思います。
1月2日にぷらぷら町をほっつき歩き、トイレを借りにに入ったスーパーで餅つきをしてました。集まった人たちの晴れ晴れとした顔を見るに付け、強く感じたのは私たちのささやかな願いは日々安穏に暮していける平穏だということ。セレブとかビップとか特権階級に不可欠なとてつもないお金も必要ないし、過剰なセキュリティも必要ないです。
世界の富をほとんどを牛耳っている者たちは欲の皮が突っ張ってるのか、満腹中枢が壊れているのか、厄介ごとを世界に起こしていますけれど、もうやめてくれ、引っ込んでくれって、私は思いますけれどね。権力闘争が好きな人々はどこかよそで殺しあいでも、騙し合いでもやってくれって思います。
とにかく、つつましやかなすべての皆さんに、あけましておめでとうございます。
12月の中旬から下旬にかけての寒波で12月としてはかなりの積雪になりました。寒波の過ぎた後は寒さも緩み、29日は快晴、30日も夕方まで天気が持ちました。30日の夜から相当の強風。一夜明け外は5センチほどの積雪。雪は先の寒波ほどではありませんが、真冬を実感する天気です。
週間天気予報では明日から雪の1週間になるようです。相次ぐ冬山の遭難のニュースがもたらされていますが、登山なぞしない私には好き好んで極寒の荒れた山に行くのかわかりません。なにせ、寒い季節になると途端に出不精で、こたつでお酒を飲んでぬくぬくするナマケモノですからね。
甥が捨て猫を飼いました。拾った時は、目が開いたばかりで、片手におさまるくらいの大きさだったそうです。牝猫でほぼ黒いのですが、4つ足の先が半分ほど白く、喉のあたりとおなかが白です。もとより雑種ですが、目が青みを帯びているので、外国産の血が混じっているようです。
初雪。11月3日朝の鋸山。前日の雪の予報が的中。もっとも雪が積ったのは画像でもわかるように、新潟では山の高いところ。山間部の人家周辺に降ったか降らないかという具合。今年の初雪は例年よりもかなり早いということですね。家から鋸山のほうを眺めると、はっきり降雪が確認できました。でも、長期予報は暖冬だとのことですね。どうなりますやら。
「千住の火炎土器」って言って、「あれか」ってわかる人、近頃の言いまわしを戯れに使うなら、「長岡力」が相当高いですね。
安福亭そば、交番わきにその火炎土器のモニュメントはあります。「なんでここに?」由来めいた案内は一切ありません。前回の新潟国体の際の聖火台なのかとも思ってもみたりするのですが・・・。とにかく、近くに「米百俵」で名高い、小林病翁虎三郎(享年50歳)の眠る興国寺もあり、なにやら中途半端に歴史的な香りが漂うミステリーゾーン。
「長岡の歴史散歩(知られざる文化遺産をたずねて)」を入手しました。これが、けっこうすぐれもの。というのは、私みたいな面白いことがまず大事だと思っている人種に、この本は民間伝承の類を大いに載せてくれているからです。
この書物が火炎土器について語るところによると、火炎土器は「昭和38年に国立科学博物館の要請で日仏文化交流に出品したが、輸送担当商社の不心得で型を取られたうえ着色までされ、傷ついてもどってきた」というとんでもないことがかってあったそうです。それにしてもこの商社今でも繁栄しているようなら、遅まきながらも誰ぞが天誅を下さねばなりませんな。
近くを通りかかったら、もの好きを発揮して、立ち寄ってみるのも手かもしれません。強いてお勧めはしませんが。
補足。駅前にもいつの間にか、火炎土器のモニュメントができてましたね。今日(7月2日)気がつきました。
東神田にある踏切。かってこの一帯に女子高校が三校存在していました。現在学校はありませんが、踏切に往時をしのばせる名残があるわけです。
三校の女学校ですが、踏切を挟み西側には長岡高等女学校、その東側には私立女子商業学校、さらにこの女学校の東隣に長岡女子師範学校がありました。
この踏切近くの栄涼寺には河井継之助の墓があります。この寺には彼の他にも長岡の偉人たちの多くが眠っています。
BB様。
また投稿させていただきます。
私も学校が長岡でしたので、このあたりのことは少しは知っていたつもりでしたが、「女子高校」3校というのがどうしてもわかりません。
1つは、現在では「帝京長岡高校」になってしまった旧「長岡女子高校」だと思いますが、あとの2校がどうしてもわかりません。差し支えなければ、教えていただけませんでしょうか。
KN様、BB様。
私の知る限りの「女子高校」情報。
①長岡女子高校は大手高校の前身だと思います。当時、通称として長岡高校を「第一高校」女子高校を「第二高校」と呼んでいましたが、女子高校は嫌がっていたようです。現在地に移転を機に「大手高校」とし、男女共学にしたと思います。
②斉藤女学校→実業高校→家政高校→中越高校。東神田から新保に移転しとことを機に「中越高校」とし、男女共学になったのではないでしょうか。
③女子師範の跡地に東北中学が出来ました。東北中学は高田師範学校の影響を受け、校訓は天地人で有名になった「第一義」でした。東北中学が現在地に移転した跡は、立正佼成会になっているのではないかと思います。
以上ですが、間違っているかも知れませんが、情報として、お知らせします。
望郷生様、情報ありがとうございました。
「女子師範」は、その後いくつかの変遷を経て、現在の新潟大学教育学部になっているかと思います。
新潟大学は、以前は工学部も長岡市にありましたが、工学部移転後に長岡技術科学大学が設立されたのに対し、教育学部が新潟市へ移転しても、長岡市には、それに代わる大学は設立されていません。「教育」を重視しないという県民性は、大学進学率の低さにも表れていると自分では思います。
話が横道にそれてしまい、申し訳ありません。
長岡市中之島と見附市今町の大凧合戦を見てきました。
毎年6月の第一土、日、月の三日間にわたり開催されているそうですが、私は今回が初めてです。
心もち強めの風があるせいか、大凧は悠々と空に舞っています。見てると一組の凧が糸を絡ませていました。喧嘩凧という勇ましさはなく、むしろのんびりと遊び戯れているといった風情です。
BB様。
「富所正一」様の件ではお世話になりました。
「大凧合戦」というと、新潟市(旧 白根市)の方ばかりマスコミ等に取り上げられ、個人的には面白くないのですが、「今町・中之島」を取り上げていただき、ありがとうございます。
また私事で大変恐縮ですが、今回の見附市今町側の「凧」の製作に私の父も携わっていたようです。
当日は、私は「大凧合戦」を見に行くことができず、また父の携わった凧がどうなったのかもわかりませんでしたが、貴重な写真を掲載していただき、ありがとうございました。
KNさん、書き込みありがとうございます。
空に舞う大凧にも目を奪われましたが、通りに飾ってあった大凧にも目をひかれました。まじかで見る大凧の絵には武者絵も多く、「天地人」「愛」の文字がはいっているので、直江兼続をモデルにしているのでしょうね。
こうした町中の大凧はディスプレーだけのものなのか、それとも、二日目、最終日に、空に舞うものなのかとも思いました。
大凧を実際に引っ張って、空へ舞い上げている方々にすれば、息つく間もないほど大変な重労働でしょうけれども、見ている私は、風はちょい強いものの好天だったので、のんびりした気分を味わいました。
私の感覚としては運動会は秋のものでしたし、今でも多くの中学校や高校では秋に行われるようですが、小学校は五月下旬、初夏の頃の開催が主流のようです。長岡の多くの小学校で先週と今週の土日に運動会が予定されていたようです。
運動会といえば、万国旗。どうして運動会になると引っ張り出すのでしょうか?確かに華やかにはなりますが。あるいは、小学校くらいまでは小型ビデオカメラを手にした父兄。大きさも、値段も手ごろになったせいで、カメラを回している人の方が多いくらいですね。