「パチンコ桃山の地下遊技場」
「長岡のプレイスポット その1」 1997.7.31
長岡駅をでると、左手に更地が広がっていますが、かっては長崎屋というデパートがありました。手前の信号機次第では感慨にひたるかどうかが決まってしまいますが、この横断歩道を渡ると、パチンコ店が3軒ならんでいます。一番右側のパチンコ店は、十数年前は電気店だったか、家具店だったかその両方だったかでした。まったく「パチンコ店の勢力おそるべし」ですね。
最左翼にある桃山というパチンコ店はおそらく一番の古株ではないでしょうか?このパチンコ店には地下があります。ここでなつかしいスマートボールが楽しめるのです。
え?「スマートボールてなんだ?」ですって。今ではこれを知らない人が多いのも無理はありません。ピンボール(これだって知らない人がそろっと出始めているかも知れませんね)がただ名誉を求めるだけの孤独なダンディズムに満ちているとしたら、スマートボールは娯楽と射幸心をくすぐる泥臭いスノッビズムを帯びています。ありていにいえば、今のパチンコ台をぐっと素朴にレベルダウンし、台を寝かせてあるのです。玉は一回り大きな白いビー玉を、スマートボールのように手動で弾くのです。
スマートボールの台は幾つか種類があります。みなさんそれぞれ自分に合う台をさがして遊んでいるようです。ただ大きく分けるとすれば、2種類の玉の買い方によって分けられるのではないかと思います。一つは100円硬貨を投入して15個ほどの玉を買うやり方。もう一つはいったん200円でメダルを3個買い、そのメダルを投入して10個ほどの玉を買い点数を稼ぎ、メダルを増やすやり方。
とにかく遊び方によっては時間をつぶせます。2千円でじっくりやれば当分スマートボールを見たくなくなるほど堪能できます。私は時々2千円でまったく景品のことなど考えずに、ノスタルジーを噛みしめるためだけに行きます。
パチンコが昨今楽しめる娯楽から何だか分からないものへ変容していくなかで、ふるきよき娯楽の王様「スマートボール」を味わってみてはいかがでしょうか?


ちょとした流行語にさえなった「ミレニアム」は、ラテン語由来で「千年間、千年期」という意味だそうです。日本人にはとって、この「ミレニアム」は区切りが良いということを除けば、たんなる年月の経過にすぎませんが、キリスト教圏の人々にとっては微妙な感情を引き起こす言葉だと聞きました。それは同時に、この言葉が「至福千年、千年王国」を意味するからだそうです。この宗教的ヴィジョンを示す言葉は、私のような非キリスト教徒には、むしろエキゾチックに響きます。
最終的に何巻になるのかわかりませんし、三人の子どもの末っ子は途中で生まれたように私は記憶しているのですが、1巻ですで小学生ほどに成長しているので、この巻の前に話があったような気がします。いずれにせよ最終的には、アウトドアライフのノウハウを中心とした蘊蓄まんがになっていったように覚えています。
いわゆるひとつのヘアヌード写真集ですが、今を時めく人気アイドルがモデルとなったことが多くのヘアヌード写真集の出版の経緯と趣を異にしたため、マスコミが大騒ぎしました。果ては当の人気アイドルの涙の記者会見もあったりして話題になった一冊です。
1980年12月8日のジョン・レノンの死は、確かに大ニュースだったのですが、先年のダイアナ元皇太子妃の死ほど世間は大騒ぎしなかったように記憶しています。この4月からぼくは大学生活を始め、そろりと酒の味と麻雀をおぼえて、能天気な生活を過ごしていました。
家にはカセットデッキと一緒になったレコードプレイヤーが使われずに置かれたままになっています。FMとAMのチュナーが組み込まれ、一応二台のスピーカーを備えたセパーレートタイプですが、もちろんこの用途はレコードをテープにダビングするためです。このレコードプレイヤーを買った頃、大学生が始めたという貸しレコード店の躍進ぶりは目覚ましいものがありました。著作権問題を引き起こしながらも、貸しレコード店は我が世の春を大いに謳歌していました。
長岡にあった貸しレコード店の一つに、「友&愛」がありました。いつのまにかなくなったようですが、それがいつなのかまったく知りませんでした。妹がここからしばしばレコードを借りていました。ぼくは妹のダビングしたテープで、サザンオールスターズ、荒井由美、YMOなどを聞きました。中でも佐野元春は大いに気に入り、「サムディ」は繰り返し聞いたものです。
ぼくの1980年は予備校の1年でした。大学に落ちて長岡にある新潟予備校に通っていました。その頃の新潟予備校長岡分校は大手通りの一番奥まった雑居ビルに入っていました。現在はどうか分かりませんが、当時の予備校の授業は案外のんびりしたもので、ちょくちょく脱線していたような気もします。ある英語の先生はユニークな経歴の持ち主でした。授業はまったく忘れているのに、海軍の通信兵としの話、世界をめぐり歩いた話などはいまでも記憶に残っています。国立文系コースの授業は西向きの一室で行なわれることが多く、西日で部屋が眩しくなったことを思いだします。
予備校では前年度に導入された共通一次テストに備えるために、毎土曜日だったか、隔週だったかにマークシートで3教科が行なわれていたような気がします。満点を取ると図書券がもらえました。